『零戦 アメリカ人はどう見たか』と『ショットバー』

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ゼロ戦、正式名称は「零式艦上戦闘機」。
確か皇紀2600年に採用されたから末尾2桁の "00" から取った名称だったかと。
堀越二郎氏設計による第二次世界大戦の名機とされる。
それを「アメリカ人」というフィルターを通してみたらどうなるのかという興味深いお話(ドキュメンタリー)でした。
アメリカ兵からは「Zero」とか「Zero Fighter」と呼ばれ、開戦当時は詳細不明な点も多かった為に恐れられていた。
ところが不時着したゼロ戦を回収することに成功して詳細に解析され、あらゆる欠点が浮き彫りにされた。
それらの結果からゼロ戦は運動性能がよく小回りが効くので1対1のドッグ・ファイトでは勝ち目はないが、高空からの一撃離脱戦法を仕掛ければ恐れるに足りないと。
捕獲したゼロ戦をテスト飛行したアメリカのパイロット曰く「競技用に操縦するのなら文句なしに一級品だが、戦闘機として操縦するのはゴメンだ」と。
パイロット保護の観点がまったくなく、すぐ火を噴く燃料タンクも相まって空飛ぶ棺おけなのだそうな。
低性能(馬力が足りない)なエンジンで500km/hを超える速度を達成するために極限にまで軽く仕上げたゼロ戦
パイロットを保護する防弾装備なんて重量増になるようなものは付けられなかったのだ。
それに比べアメリカ機は防弾装備やメンテナンス性に重点を置いて重くなったボディを強力なエンジンでカバーするという、まるで昔の日本車とアメ車のような関係が面白い。(^^;
日本的で(当たり前か)謎の多い戦闘機なのでした。
  パイロット保護の観点において興味深い記述も。
海上での戦闘地域に駆逐艦や潜水艦を多く配置させ、パラシュートで脱出したパイロットの救助活動を行っていたという。
パイロットを一人前に育てるのに要する時間を考えれば生きて帰らせることに重きを置いていたのだ。
だから戦争末期にパイロットの数を減らすことになる特攻作戦が理解できなかった。
ただの使い捨てのコマとみなしていた日本とは根本的に考え方が違ったのだねぇ。

話は変わりますがゼロ戦は好きでしたねぇ。
小学生の時にプラモデルを何機も作りました。
殺人兵器ではあるけれど、純粋にメカとしてみた場合に無駄を省いた機能美が幼心ながらカッコイイと思いましたよ。
ゼロ戦の中でも後期型の52型丙というやつが特に好きでしたね。
両翼に20mmと13.2mmの機銃を各2挺と機首に7.7mm練習用機銃1挺と13.2mm機銃を1挺を装備したやつ。
機首に付いた機銃を撃って、よくプロペラに穴が開かないもんだなぁと不思議に思ってみたり。(^^ゞ

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う〜ん、組織や登場人物が多すぎて読みにくい。
とある商社勤務の女性が殺人事件に巻き込まれて、色々な組織から追われるという理不尽極まるお話。
優柔不断だった彼女も最後には開き直って強く生きていく姿が描かれている。
が・・・なにやら国際的な(北朝鮮や中国)匂いも醸し出しつつ、警視庁の捜査1課(殺人捜査課ですね)、外事2課、自衛隊、中国大使館とてんこ盛りな割りにはラストがあっさりしすぎていないか?
同じ警視庁内でも他部署との縄張り争い的な部分がちょっと分かり辛かった。
残りのページ数からしてイヤな予感はしましたが、消化不良気味に感じましたね。
残念。